身体は、すなわち、わが内なる物質なのである。物質が肯定されるとき、客観世界が肯定されるのである。密教は偉大なコスモロギーを持っている。コスモスの中で、我々の存在が考えられている。
・・・
自己の中に仏身が宿る。わが身が仏身であり、仏身がわが身である。衆生と仏とが無限に相互にうつし合っている。自己の中に、全世界が反映されている。
梅原猛「空海の思想について」
"(via stilllll)
「激動するもの」
そういう言葉では言えないものがあるのだ
そういう考え方に乗らないものがあるのだ
そういう色で出せないものがあるのだ
そういう見方で描けないものがあるのだ
そういう道とはまるで違った道があるのだ
そういう図形にまるで嵌らない図形があるのだ
そういうものがこの空間を充満するのだ
そういうものが微塵の中にも激動するのだ
そういうものだけがいやでも己を動かすのだ
そういうものだけがこの水引草に紅い点々をうつのだ
(高村光太郎)
"(via stilllll)
美しかった
桜がおよそ咲ききった頃、
嵐は花を散らした。
花は何も逆らわず
潔く風に舞い
地に降りていった。
桜の潔さが美しかった。
嵐の無情さが美しかった。mina perhonen letter (20130409)
灰谷 健次郎
Twitter / iwa00000: あなたの知らないところにいろいろな人生がある あなたの人生 …
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あい 口で言うのはかんたんだ
愛 文字で書くのもむずかしくない
あい 気持ちはだれでも知っている
愛 悲しいくらい好きになること
あい いつでもそばにいたいこと
愛 いつまでも生きてほしいと願うこと
あい それは愛ということばじゃない
愛 それは気持ちだけでもない
あい はるかな過去をわすれないこと
愛 見えない未来を信じること
あい くりかえしくりかえし考えること
愛 いのちをかけて生きること
谷川俊太郎 「あい」
"(via stilllll)
機とは疑いなきも思い込みなきを云ふ。疑うては機を逃し、思い込んでは機を逃し、機を捉えられる者それ稀なり。さらに機を稽古できるもの稀なり。稽古にて刹那のなかの懸待一致を知る者は稀中之稀や。懸かる機を捉え、待つ機を捉え、懸かりて待ち、待ちて懸かれ、一致を知ることや否や稀な稽古なり。
光岡英稔
https://twitter.com/hidetoshi44/status/322547277325553664
機 気
弓道 射法八節「会」に同じ
(via fffff9)(出典: stilllll)
ここにわたしの家の花園があります。花はいま一つもありませんが、目の前にみどりの花園がある、と思ってください。そうすると、これは「ある」としか思えないでしょう。感覚があって、それに判断がともなうというだけではありません。だから正確にいえば、それらに加える「ある」という」実感があるのです。つまり、存在感があるのです。
ところで、あなたの肉体もあります。これも、いろいろなせんさくを抜きにして、いまある、としか思えないですね。それで、いちおうこれも存在感があるといえます。
そうすると、目の前の緑の花園も存在感、あなたの肉体も存在感です。しかし、この二つの存在感は同じですか。なんだかちがいます。
みどりの花園は、さやかに「ある」。しかし、自分の肉体はあり方がなんだか濁って「ある」。そのように思えるでしょう。もうすこしことばを加えますと、花園がある、というのは、「ある」ということに対して、疑いがおこらないのですね。
ところが、肉体がある、というほうを仔細に見てください。「ある」ということに疑いをおこしそれをひじょうに強く打ち消して、「ある」と思うのです。
そうなのです。この二種類の「ある」があるのです。
さやかに冴えた「ある」と、否定を打ち消している「ある」です。
一つは光の「ある」、もう一つは影の「ある」です。影は存在しませんが、しかし、存在するともいえる、その「ある」です。
そのみどりの花園がある、という「ある」が冴えてくると疑いがまったくおこらない。そんなふうな「ある」です。これだけが「ある」という感じなのです。そうしますと、「あるような気がし」たらもうそれでじゅうぶんあることが信じられます。それを確かめたりしません。
確かめるというのは、疑いをおこしてそれをより強く否定する。そうしてはじめて「ある」と思うことです。そういうあり方だけが、たしかにあることだとたいていの人は思っています。
しかし、それは影の「ある」であってその影をとってしまえば、はじめは「あるような気がする」だけですが、それをじっとよく見ているともっとあるようになるのです。だんだんはっきりしてきて、あるという疑いをともなわない実感になるのです。
人と人とのつながりもそうです。真のつながりは、これを一度疑いそれをより強く否定する、という形式で、確かめたりはしません。それが心の紐帯(ちゅうたい)です。
この「ような気がする」というのをたよりなく思って、影の「ある」を目標にしていたのでは、真・善・美どの道においても向上というものはありません。向上するほど「ような気がする」が自明な「ある」になってくるのです。疑いをおこしてそれを強く打ち消す、という形式ではけっしてそうはなっていかないのです。
なにかいちいち文字に書き表して、それに認め印までおしてもらわなければ承知できない、そのようにしてはじめて安心するというふうなつながりでは、つながっているということの実感はけっして出てきません。
もう一度いいますと、さきのみどりの花園があるという「ある」と自分の肉体があるという「ある」とは、ことばとしては同じですが、実はまったくちがったものです。
ここの境めが非常に大事なところです。さやかにあるという「ある」を「ある」と思っていると軽く澄んで天となり、疑いを強く打ち消す形の「ある」を「ある」とおもっていくと重く濁って地となります。だから天地はこの線で分かれるのです。このけじめがすこしでもわかるような気がしてくれば、それがあなたの心の夜明けなのです。
岡潔「情緒と想像」
"(via stilllll)
生きることそのものの悦びは、健康の齎す自然の教えだ。 我等は健康に生きることの尊さに目覚めねばならない。
人の生きるのは自然である。死ぬのも自然である。 何のために生きるのか、それは判らない。 自然を活かすためかもしれない。自然を活かして 何になるか、それも判らない。 人は目的も使命も判らないで生きている。 ただ生きていることそのことが、自然の使命を果たして いるのかもしれない。自然に生きていれば快いのだから、 生きていることそのことが自然だ。それ故、生きていること そのものが使命であろう。それ故、生きている目的は、生きていることそのものである。
生きるも死ぬも自然だ。何れにしても順応するだけだ。 生ききって死ぬことが、働いて眠くなるように快くあれば、 健康な死と言えよう。生きるとは死ぬことだ。 死ぬことによって生きているのだ。
生も快なら、死もまた快だ。快く死ねないのは、 快く生きていなかったからだ。
元気に生きよう。進めば道は自ずから拓かれる。 躊躇している間に、時は過ぎて行く。一瞬の時にも 生命は流れて行く。死の直前の一瞬も、今も、 また同じ一瞬である。一秒間も大切に使わねばならない。 一分間も元気を満たして活き活き生きることが、 自然の行き方だ。生きる事は、自然の使命だ。
しとげたことに光があるのではない。しとげつつある その行程に光はあるのだ。しとげたことにしか光を見ないのは 人間だが、自然の光はしとげつつある行程に現れる。
自然の生活は苦しむことではない。努めることでもない。 楽々悠々、すらすら容易に一切のことが運ばれる。 それが健康な生き方だ。
自然は山にあるのではない。樹にあるのでもない。 人間の一呼一吸それが自然だ。
(野口晴哉 1911-1976)
"(via stilllll)
一、茶は服のよきように点て
二、炭は湯の沸くように置き
三、花は野にあるように
四、夏は涼しく冬暖かに
五、刻限は早めに
六、降らずとも傘の用意
七、相客に心せよ
利休
"http://www1.odn.ne.jp/~cas30550/chanoyu-j/sitisoku.html (via stilllll)
(出典: itokonnyaku)
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大事なことはいつも、
外に出さずに胸にしまってしまう。
壊れないで、そのままでいてほしいから。
ときどき、内に秘めているのに、
ちゃんと人に自分が伝わっていることがあって不思議です。最近、
自分と同じように、そのまま大事なものとして扱ってくれる人と
そっと共有したいと思う。自分と似ている人を見つけると、
何故だか切ない気持ちになって、
なんとなく関わらない方が
お互いにとっていい気がしていた。
でも、そういう人って本当に貴重なんだと最近考えるようになって、
数少ないそういう人と、
あなたと、ふたりきりでちょっとお話をしたいと今日も思いました。
…
泥の中に咲く蓮の花。泥は汚く花は美しい。 しかし、泥も花も現実である。ならば、この両方を肯定しなくてはいけない。そこに人間としての強さが出来てくるのだ。自分がこの世に生きるという、事実に対して自信を持ち、生きがいを感じるには、全てを肯定したほうがいい。映画で言うと美しい蓮の花を描くことによって泥の存在を知らせる方法があるのだと思う…恥ずかしくない映画を撮りたい
小津安二郎
"(via stilllll)
自覚はないのに「言い方がキツイ」「上から目線」と言われる原因と対策について考えてみた - Togetter (via fffff9)
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魂は商品として、売り買いすることができません。情報として、蓄積したり、伝達したりすることもできません。魂は贈与されるものです。自然から人へ、人から人へ、魂は見返りを求めることなく、贈り与えられ、それを受け取った人は、自分が受け取ったものにもまさるすばらしい贈り物を、他の人々に贈り与えようとするのです。
人はいったい何の力にうながされて、このような贈与をおこなうのでしょうか。自分や自分に親しい者たちだけが、幸福になったり、利益を得たりすることを望んでいるあいだは、人は贈与者になることができません。そういう人は、贈与ではなく、商売をするのです。商売は人と人との間に、距離をつくりだす力を持っています。人の所持品が、もはや魂にかかわる物ではなく、その人から切り離すこともできるようになったとき、はじめてそのものは、商品となることができます。おたがいに分離された人と人の間を、魂の問題などには無関心な商品が受け渡されていきます。おたがいに分離された人と人の間を、魂の問題などには無関心な商品が、受け渡されていきます。そこで働いているのは、人と物、人と人とを分離する「ロゴス」の力です。商品の売り買いによって、人と人が結びつけられることは、ありません。そこで実現される幸福は、エゴや共同体や民族のつくる、閉じられた世界の外に、広がっていくことがありません。
ところが贈与は、そのような拡大を実現しようとするのです。贈与は人々を結びつける力によって、働きをおこないます。つまり、それは「エロス」の力によって働くのです。何の見返りを求めることもなくおこなわれる贈与は、相手の気持ちに、お返しをしなくては、という負担をつくりだすことがありません。贈り与えられるものは、魂と魂とのあいだに、エロティックなひとつの通路をつくりだします。そのとき、贈られる物といっしょになって、それを贈る人の魂が、贈られた人の魂のなかに、侵入をはたすからです。ここには、偽善はありません。「エロス」には、小さな自愛の鎧を、打ち砕く力があって、純粋な贈与への欲望にうながされてあるとき、人は他者に対する免疫抗体のメカニズムを、解除しています。そして、そのような無防備な状態にある魂が、贈与物をつうじて、自分とエロティックな結合をつくりだそうとしているのを知るとき、それを受け取る人の魂も、ほがらかな喜びを体験することになるのです。
これが、贈与です。そして、宮沢賢治という人は、そのような贈与者、しかも稀に見る純粋さで、このような贈与の精神を生きた人であったのだろう、と私は考えるのです。
中沢新一「哲学の東北」
"(via stilllll)