"五月は好い月、花の月、
芽の月、香の月、色の月、
ポプラ、マロニエ、プラタアヌ、
つつじ、芍薬(しやくやく)、藤(ふぢ)、蘇枋(すはう)、
リラ、チユウリツプ、罌粟(けし)の月、
女の服のかろがろと
薄くなる月、恋の月、
巻冠(まきかんむり)に矢を背負ひ、
葵(あふひ)をかざす京人が
馬競(うまくら)べする祭月、
巴里の街の少女等(をとめら)が
花の祭に美くしい
貴(あて)な女王を選ぶ月、
わたしのことを云ふならば
シベリアを行き、独逸(ドイツ)行き、
君を慕うてはるばると
その巴里まで著(つ)いた月、
菖蒲(あやめ)の太刀(たち)と幟(のぼり)とで
去年うまれた四男目の
アウギユストをば祝ふ月、
狭い書斎の窓ごしに
明るい空と棕櫚(しゆろ)の木が
馬来(マレエ)の島を想(おも)はせる
微風(そよかぜ)の月、青い月、
プラチナ色の雲の月、
蜜蜂の月、蝶の月、
蟻も蛾となり、金糸雀(かなりや)も
卵を抱く生の月、
何やら物に誘られる
官能の月、肉の月、
ヴウヴレエ酒の、香料の、
踊の、楽の、歌の月、
わたしを中に万物が
堅く抱きしめ、縺(もつ)れ合ひ、
呻(うめ)き、くちづけ、汗をかく
太陽の月、青海(あをうみ)の、
森の、公園の、噴水の、
庭の、屋前(テラス)の、離亭(ちん)の月、
やれ来た、五月、麦藁で
細い薄手の硝杯(こつぷ)から
レモン水をば吸ふやうな
あまい眩暈(めまひ)を投げに来た。"

与謝野晶子「五月礼讃」
(via fffff9)

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"言葉のない音楽を聴いて出る涙は一番本物の涙だという気がする。
意味というもののない涙ですね。悲しいのか、うれしいのか知らないが、それが音楽の絶対境で、喜怒哀楽とは関係がない。"

内田百閒:四方山話

(via oieouio, poant) (via yotta1000) (via dead-milkman) (via utsurigi)

(via fffff9)

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"

本当に出会った者に別れはこない

あなたはまだそこにいる

目をみはり私をみつめ くり返し私に語りかける

あなたとの思い出が私を生かす

早すぎたあなたの死すら私を生かす

初めてあなたを見た日からこんなに時が過ぎた今も

"

谷川俊太郎 (via fffff9)

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"

あなたが何も知らない向こう岸、理知にたけた思考によっては補足できない別の次元から歩き始めてみたまえ。

クリシュナムルティ

"

https://twitter.com/krishnamurtibot/status/342294763237687296 (via stilllll)

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"聞いたか

新緑よ

彼女は
まだ花をつけない
草の冠を
かぶってたんだ"

大島弓子『草冠の姫』 (via fffff9)

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"・まず肯定
・ゆっくり喋る
・早く反応し過ぎない
・正論が正しいとは限らないことを理解する
・言う必要がないことは言わない
・弱点をつこうとしない、探さない
・話を素直に聞く態度
・疑問を抱き過ぎない
・断定系を使わず提案するような疑問系を使う"

自覚はないのに「言い方がキツイ」「上から目線」と言われる原因と対策について考えてみた - Togetter (via fffff9)

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stilllll:

岡潔 



数学で前頭葉の働き
感情 意欲 創造と言われていますが、
創造はこのつくるという 生み出す
つくり出すという働き。

あれさっぱり分からないという意味で
いかにも不思議だという意味で
大きな海のように思うんですが、
渚のところは、実質的にやるというふうな
あるんですね。あるんだけど、沖へ出てしまうと
まるで「潮の流れに操られてしまっている」っていうふうな…
そこまで行くともう学問も芸術も、あまり区別が
つかないんじゃないか

ーーーしかし、何かこう、君のやり方は、
数学やっているのは、芸術的であると思うけど、
科学的である、という面もある。


ええ。この沖へ漕ぎ出る、漕ぎだし方ですね。
数学というものを分からすためには
体系というものを分からすのが早い。
その体系というものを会得するについては
自分が自主的にやって会得していますね。
やっているうちに出来ていっている、そう思うんですね。
その意志体系をはじめ非常に使いますね。
その船を操って、沖へ漕ぎ出すというふうな感じ。
何よりもそこが藝術にはないんですね。
数学という大河の流れがあって、
それに同調するのでなければ意義のある仕事とは言えない。
そこの所も藝術と違っているようですね。



数学上の発見には喜びが伴う。
この問題は十中八九解けないだろう。
よしやってやろうという気になる。
そうするとほのぼのと面白くなる。
やるのが面白いからやったのだし、
やったあと、鋭い喜びが伴うから、
それでなおさら喜んでやったんだし。



日本人は自然とか人の世とかを
自分の心のなかにあると思っているらしい。
自然や人の世を喜ぶと
自分が非常にうれしいというらしい。

芭蕉や万葉集を読んでみると
少しも自他対立していなくて
自分の心がそのまま外に
嬉しいというふうに詠んでいる。

うちなびき 春来にけらし 山の間の
木ぬれの桜 咲き行く見れば


パ~っと春が来ているが
それがすなわち 自分の生命だというふうになる。
そう思って自分のやり方を見ると
数学を自分の心の中にとりいれて
そしてその心の中で数学を見る。
そうすると心の中に入っている数学が
その一点で凝集して形を現してくるというふうになる。

つまり日本人はものを心の中に入れて
そして、その自分の心の中を見るっていうふうなことが
非常に上手なのに、今の人はどうも内を見る眼というのが
あまり開いてないように思う。

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"

より良い言い方


・取り急ぎ→まずは

・ちょっと用事がある→あいにく都合により

・よろしかったでしょうか→よろしいでしょうか

・返事→ご返事またはお返事。ビジネスではご返事が一般的

・了解→承知しました、かしこまりました

・ご多忙、お忙しいところ→ご多用のところ

・聞きたい→おうかがいしたい

・見てください→ご覧ください

・行きます→おうかがい致します

・します→させてください

・会いたい→お目にかかりたい

・どう思われますか→どのようにお考えですか

・行かれますか→いらっしゃいますか

・楽しかったです→楽しく過ごしました、楽しゅうございました

・したいと思い→したく

・申し上げたいので→申し上げたく

・(初めてメールを送る相手には)
お世話になっております→このたびはお世話になります

★「いただく」は目下の者が目上の人からうけとること
・ご理解いただきますよう→ご理解くださいますよう
・ご協力していただいた→ご協力くださいました
・ご参加いただきました→ご参加くださいました

★「させていただく」は許可と恩恵を受ける場合に使う
・ご連絡させていただきます→ご連絡いたします
・検討させていただきます→検討いたします

★断りの文章は、相手の立場で書く
・ご迷惑がかかる
・お互いに利益を共有することが難しい
・御社にご満足いただける結果を出すのが難しい

★クッションとなるフレーズをはさむ
・せっかくのお申し出ですが
・ご期待に添えず誠に残念ですが
・心苦しく思いますが

☆断ることで相手に悪いとは考えず、断ることで相手は早く新たなアクションをおこせると考える

よく使うメールのフレーズ集



★書き出しのフレーズ
・お世話になっております
・お疲れさまです
・ごぶさたしております
・たびたび失礼します
・はじめてメールをお送りいたします

★返答のフレーズ
・メールを拝見いたしました
・~の件、承知しました
・本日、確かに受領いたしました
・~について、ご返答いたします
・この件につきましては、○月○日までにご回答いたします
・○日までに、ご返事をすればよろしいでしょうか
・詳細については、あらためてご返事いたします
・(進展などがありましたら)またご連絡いたします

★連絡・案内・相談・質問のフレーズ
・~について、ご案内いたします
・~を添付ファイルでお送りいたします(Word文書)
・~の件で、ご相談があります

★確認・検討・打診・依頼・催促のフレーズ
・~について、ご確認ください
・お手数ですが、~の受け取り確認のメールをいただければ幸いです
・ご査収のほどよろしくお願いいたします
・ご都合のいい日時をお知らせください
・ご多用のところ恐縮ですが、~いただければ幸いです
・~については、いかがいたしましょうか
・~でよろしいでしょうか
・誠に恐れ入りますが、○月○日までにご~をいただきたくお願い申し上げます
・ご理解とご協力のほどお願い申し上げます
・○日付けのメールは届いておりますでしょうか
・状況をお知らせいただければ幸いです

★承諾・辞退のフレーズ
・~については、問題(異存)ありません
・~の件ですが、お引き受けいたします
・~については、難しい状況です
・誠に残念ですが、今回は見送らせていただきたいと存じます

★感謝のフレーズ
・ご連絡ありがとうございました
・さっそくのご返事ありがとうございました
・~をお送りくださり、ありがとうございました
・~くださいまして、感謝申し上げます
・いつも~いただき誠にありがとうございます

★お詫びのフレーズ
・~して、失礼いたしました
・大変申し訳ございません
・大変ご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません
・誠に申し訳なく、心よりお詫び申し上げます
・今後、二度とこのようなことのないように厳重に注意いたします
・ご要望(期待)にそえず、申し訳ございません

★返信不要のフレーズ
・なお、ご返信は不要(無用)です
・ご確認いただければ、ご返事は無用です
・とくに問題がなければ、ご返信にはおよびません

★結びのフレーズ
・(どうぞ/以上)よろしくお願いいたします
・それでは、失礼いたします
・では、また(あらためて)ご連絡いたします
・ご返事(回答)をお待ちしております
・お手数ですが、(至急)ご返事をいただければ幸いです
・ご不明な点などがありましたら、お問い合わせください
・ご検討のほど、よろしくお願い申し上げます
・ご意見、ご感想をいただければ幸いです
・まずは、ご案内(報告)まで
・まずは、用件のみにて失礼いたします
・まずは、お礼かたがたご報告申し上げます
・まずは、受け取りの確認とお礼まで

"

メール文章力の基本 大切だけど、だれも教えてくれない77のルール (日本実業出版社) の要点まとめ~ブクペ~ (via fffff9)

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kazesaeki:


森永純さんの写真集『WAVE』の予約を開始しました。限定800部です。ご興味ある方は、こちらのホームページでお申し込みください。 http://www.kazetabi.jp/森永純-wave-写真集販売/ 森永純さんは、ユージンスミスが号泣したと言われるドブ川の写真集「河 累影」(邑元社)を出した後、30年以上の長きにわたり、ひたすら波の写真を撮り続けている。 1970年代のはじめ、日本の写真界を牽引していながら、森永純さんは、写真集をこれまでに『河 累影」(邑元社)の一冊しか世に出していない。 「河 累影」は伝説的な写真集となって、今も根強いファンがいるが、森永さんは、写真集を作ることや、写真を発表することを主目的とせず、自分の内的必然性において、ひたすら写真を撮り続ける。誰かに見てもらいたいなどという媚びた欲求は持っていないのだ。 そのストイックなまでの写真がユージンスミスの心を直撃し、男泣きしたと、ユージンスミス自身が後に語っている。 ユージンスミスは、森永さんが撮ったドブ川の写真に、原爆のイメージを見いだしていた。 森永さんは、長崎県出身で、原爆によって、家と父と姉を失っている。長崎に原爆が投下された時、森永さんは、佐賀県に疎開していた。 戦争が終わって、自宅に戻ってきた森永さん。そこには、夏の強い日差しに輝く白い空間だけがあった、悲しみとか怒りといった感情は湧いてこなかった言う。 森永さんの戦後は、その白い空虚から始まった。だから、森永さんは、1960年代のはじめ、ヘドロで悪臭漂う東京のドブ川の写真を狂ったように撮影し続けていた時、原爆のことはまったく考えていなかった。ただひたすら、自分の内的衝動にしたがって、ヘドロの川面すれすれのところまで顔を近づけて撮影していた。 そして、森永さんは、そのヘドロの中に、生物が生きていることを発見していた。 森永さんは、自分が撮ったドブ川の写真と、原爆を結びつけられることを嫌う。原爆を意識して撮ったことなんか一度もないからだ。しかし、ユージンスミスは、その写真の中に、原爆の影を見た。森永純さんが長崎出身だということを知らずに、森永さんと原爆の関係を見抜いていた。ドブ川の得体の知れない強烈なイメージが、彼の胸を貫き、泣かざるを得なかったのだ。 そんな森永さんは、東京のドブ川を撮り切った後、ひたすら波の写真を撮り続けてきた。戦後、白い空虚から歩みを始めた森永さんは、戦後の日本社会に次々と建造されていく物質世界が、全て蜃気楼に見えていたのだろうか。そうした世相的なことにまったく関心を持たず、ドブ川を撮り、その後に波を撮り続けて、写真家人生をまっとうしてきた。 森永さんが撮った波の写真は、巷でよく見られる癒し系の波写真とはまったく異なっており、それはまさしく森羅万象の根本的な律動。その律動は、当然ながら、命あるわれわれの中に息づいている生のリズムでもある。 ヘドロだらけのドブ川の中に微細な生物を見いだしていた森永純さんは、波を通して、生と死の本質的な様相を嗅ぎ取っていたのだろうか。生が有で死が無なのではなく、もしかしたら、生死は波の起伏にすぎないかもしれない。 もちろん、そんな分別を持って撮影していたわけではないだろうが、森永さんは、船に乗って波を見つめ続けている時、意識が溶け消え、恍惚とした境地のまま、何度も波の中に身を投じてしまいそうになって、とても危険だったと述懐していた。  私が、風の旅人の第35号の特集で、森永さんの波の写真を紹介したいと申し出た時、森永さんは、30年も撮り続けていながら、まだ完成していないからと拒んだ。そこをなんとかお願いして、16ページほど紹介させていただいた。 その時、森永さんのイメージの中では、あと4つほど波の相が必要だということだった。それが撮れるまで、波の仕事は終わらないと言っていた。 波というのは、それなりに絵になるので、波の写真を撮って写真集にしている人はたくさんいる。あまり時間をかけることなく、同じ場所に立って、ザブンザブンと押し寄せてくる波を待って撮っている写真を作品だと言って発表している人もいる。そういう写真集は、すぐに飽きてしまう。人間が波を自分の都合の良いように切り取ったところで、それは波ではなく、波のごときデザインでしかない。 森永さんは、かつてドブ川に取り憑かれていたように、波の複雑精妙さに取り憑かれて、30年以上も撮り続けている。森永さんは、何度見ても、波の中に新しい魅力を発見して飽きることがない。そういう人が撮った波の写真もまた、飽きることのない魅力がある。 その写真は、刻々と変容していく波が見せる瞬間ごとの美しい相ではあるが、撮影によって波の動きを切断したという感じはせず、それ以前の動きと、それ以降の動きをつなぐ絶妙な均衡がとらえられていると感じる。それゆえ、写真という静止空間にもかかわらず、波全体および各部分がうごめき、波そのものの生が持続していることが伝わってくる。波は、それ以前の力を受けて次へと伝えながら絶え間なく変化し続けているが、どの一瞬を切り取っても同じものはない。波の一つ一つは常に新しい形を見せる。しかし、全体として見れば、いつまでも変わらない波ならではの摂理がある。繰り返し繰り返し、これまでも、そしてこれからも、その時ごとの必然性のなかで、なるべくしてなるように全体と部分を整えながら、次なる動きを生みだしている。  波のリズムというのは、間違いなく記憶の深いところに働きかける力がある。そして、波そのものにこれだけ深く自己投入して撮影を続けてきた人は、森永さんを置いて、他にいない。

kazesaeki:

森永純さんの写真集『WAVE』の予約を開始しました。
限定800部です。ご興味ある方は、こちらのホームページでお申し込みください。
 http://www.kazetabi.jp/森永純-wave-写真集販売/

 森永純さんは、ユージンスミスが号泣したと言われるドブ川の写真集「河 累影」(邑元社)を出した後、30年以上の長きにわたり、ひたすら波の写真を撮り続けている。
 1970年代のはじめ、日本の写真界を牽引していながら、森永純さんは、写真集をこれまでに『河 累影」(邑元社)の一冊しか世に出していない。
 「河 累影」は伝説的な写真集となって、今も根強いファンがいるが、森永さんは、写真集を作ることや、写真を発表することを主目的とせず、自分の内的必然性において、ひたすら写真を撮り続ける。誰かに見てもらいたいなどという媚びた欲求は持っていないのだ。
 そのストイックなまでの写真がユージンスミスの心を直撃し、男泣きしたと、ユージンスミス自身が後に語っている。
 ユージンスミスは、森永さんが撮ったドブ川の写真に、原爆のイメージを見いだしていた。
 森永さんは、長崎県出身で、原爆によって、家と父と姉を失っている。長崎に原爆が投下された時、森永さんは、佐賀県に疎開していた。
 戦争が終わって、自宅に戻ってきた森永さん。そこには、夏の強い日差しに輝く白い空間だけがあった、悲しみとか怒りといった感情は湧いてこなかった言う。
 森永さんの戦後は、その白い空虚から始まった。だから、森永さんは、1960年代のはじめ、ヘドロで悪臭漂う東京のドブ川の写真を狂ったように撮影し続けていた時、原爆のことはまったく考えていなかった。ただひたすら、自分の内的衝動にしたがって、ヘドロの川面すれすれのところまで顔を近づけて撮影していた。
 そして、森永さんは、そのヘドロの中に、生物が生きていることを発見していた。
 森永さんは、自分が撮ったドブ川の写真と、原爆を結びつけられることを嫌う。原爆を意識して撮ったことなんか一度もないからだ。しかし、ユージンスミスは、その写真の中に、原爆の影を見た。森永純さんが長崎出身だということを知らずに、森永さんと原爆の関係を見抜いていた。ドブ川の得体の知れない強烈なイメージが、彼の胸を貫き、泣かざるを得なかったのだ。
 そんな森永さんは、東京のドブ川を撮り切った後、ひたすら波の写真を撮り続けてきた。戦後、白い空虚から歩みを始めた森永さんは、戦後の日本社会に次々と建造されていく物質世界が、全て蜃気楼に見えていたのだろうか。そうした世相的なことにまったく関心を持たず、ドブ川を撮り、その後に波を撮り続けて、写真家人生をまっとうしてきた。
 森永さんが撮った波の写真は、巷でよく見られる癒し系の波写真とはまったく異なっており、それはまさしく森羅万象の根本的な律動。その律動は、当然ながら、命あるわれわれの中に息づいている生のリズムでもある。
 ヘドロだらけのドブ川の中に微細な生物を見いだしていた森永純さんは、波を通して、生と死の本質的な様相を嗅ぎ取っていたのだろうか。生が有で死が無なのではなく、もしかしたら、生死は波の起伏にすぎないかもしれない。
 もちろん、そんな分別を持って撮影していたわけではないだろうが、森永さんは、船に乗って波を見つめ続けている時、意識が溶け消え、恍惚とした境地のまま、何度も波の中に身を投じてしまいそうになって、とても危険だったと述懐していた。
 
 私が、風の旅人の第35号の特集で、森永さんの波の写真を紹介したいと申し出た時、森永さんは、30年も撮り続けていながら、まだ完成していないからと拒んだ。そこをなんとかお願いして、16ページほど紹介させていただいた。
 その時、森永さんのイメージの中では、あと4つほど波の相が必要だということだった。それが撮れるまで、波の仕事は終わらないと言っていた。
 波というのは、それなりに絵になるので、波の写真を撮って写真集にしている人はたくさんいる。あまり時間をかけることなく、同じ場所に立って、ザブンザブンと押し寄せてくる波を待って撮っている写真を作品だと言って発表している人もいる。そういう写真集は、すぐに飽きてしまう。人間が波を自分の都合の良いように切り取ったところで、それは波ではなく、波のごときデザインでしかない。
 森永さんは、かつてドブ川に取り憑かれていたように、波の複雑精妙さに取り憑かれて、30年以上も撮り続けている。森永さんは、何度見ても、波の中に新しい魅力を発見して飽きることがない。そういう人が撮った波の写真もまた、飽きることのない魅力がある。

 その写真は、刻々と変容していく波が見せる瞬間ごとの美しい相ではあるが、撮影によって波の動きを切断したという感じはせず、それ以前の動きと、それ以降の動きをつなぐ絶妙な均衡がとらえられていると感じる。それゆえ、写真という静止空間にもかかわらず、波全体および各部分がうごめき、波そのものの生が持続していることが伝わってくる。波は、それ以前の力を受けて次へと伝えながら絶え間なく変化し続けているが、どの一瞬を切り取っても同じものはない。波の一つ一つは常に新しい形を見せる。しかし、全体として見れば、いつまでも変わらない波ならではの摂理がある。繰り返し繰り返し、これまでも、そしてこれからも、その時ごとの必然性のなかで、なるべくしてなるように全体と部分を整えながら、次なる動きを生みだしている。
 
 波のリズムというのは、間違いなく記憶の深いところに働きかける力がある。そして、波そのものにこれだけ深く自己投入して撮影を続けてきた人は、森永さんを置いて、他にいない。

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"

とにかく自己ほど神秘的で謎めいた存在はない。これこそが人間であると思うよ。説明不可能な事象に科学のメスを入れたり、分析したりしなければならん理由などどこにもない。合理的な解釈が行われなきゃ行動できないというのは自我の崩壊に恐怖を抱いているせいだ。苦悩や苦痛の原因を生む自我が何ほどの価値を持つというのや。自己を愛するということと自我を愛するということは別問題だと思うがね。

もし本当に自己を真から愛することができるのなら自我を捨てることぐらい朝めし前でなきゃおかしい。自我を後世大事に守りながら、自己を愛するということは不可能に近い。芭蕉が俗界から足を洗って旅に出たのも真に自己が可愛かったからであろう。何ものからも束縛されず本当に自然の本源と一体になって真の自由の大海の中を悠々と抜き手を切って泳ぎたいと念ずるなら、芭蕉がしたように全てを放下(ほうげ)するより道はないのと違うか。永遠の真理の探究者になることを自己に約束するなら、自我を捨てることが最も近道だろう。

自分自身を完璧に愛することを躊躇していることは自我を愛していることである。自我を愛することは芸術家にとっては完全な神の意志の伝達者としての道具としては不完全である。とにかく難しい。何も芭蕉みたいに家族も名声も捨てて旅にでる必要はないけど、人は一度手にしたものを手離すということが、如何に難しいかということだ。一度手にしたものには情が移る。愛情ではなくて、情なのである。愛はその対象を解放して自由にしてやることができるが、情はその反対に抱きかかえて相手の自由を束縛してしまう磁性力がある。

多くの場合愛と情をごっちゃにしてしまっているはずだ。執着というのは愛ではなく情を指す。この執着が曲者である。われわれは愛と情の区別さえできないでいるように思う。子どもや妻に対する愛は本物だろうかと自問することがある。愛と言う名のもとで子どもや妻の自由を縛っているとすれば、それは愛ではなく情だ。天上界には親子の情愛というものはないはずだ。天上界では全て兄弟(姉妹)としての共存で満ちている。友だちのような親子関係が望ましいのだ。

日本人の美学の中に情を認める文化があるが、この美意識は危険なものであるとワシは思う。情をかけることによって相手が生かされるというのは実は大間違いだ。「情は人のためならず」とか言うじゃない。真に相手のことを思うなら、そこには自己犠牲の精神がなければそれにタッチすることを禁じるべきだ。情は相手も自分も同時に殺してしまうことになるからだ。

(横尾忠則)

"

(via stilllll)

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"五月は好い月、花の月、
芽の月、香の月、色の月、
ポプラ、マロニエ、プラタアヌ、
つつじ、芍薬(しやくやく)、藤(ふぢ)、蘇枋(すはう)、
リラ、チユウリツプ、罌粟(けし)の月、
女の服のかろがろと
薄くなる月、恋の月、
巻冠(まきかんむり)に矢を背負ひ、
葵(あふひ)をかざす京人が
馬競(うまくら)べする祭月、
巴里の街の少女等(をとめら)が
花の祭に美くしい
貴(あて)な女王を選ぶ月、
わたしのことを云ふならば
シベリアを行き、独逸(ドイツ)行き、
君を慕うてはるばると
その巴里まで著(つ)いた月、
菖蒲(あやめ)の太刀(たち)と幟(のぼり)とで
去年うまれた四男目の
アウギユストをば祝ふ月、
狭い書斎の窓ごしに
明るい空と棕櫚(しゆろ)の木が
馬来(マレエ)の島を想(おも)はせる
微風(そよかぜ)の月、青い月、
プラチナ色の雲の月、
蜜蜂の月、蝶の月、
蟻も蛾となり、金糸雀(かなりや)も
卵を抱く生の月、
何やら物に誘られる
官能の月、肉の月、
ヴウヴレエ酒の、香料の、
踊の、楽の、歌の月、
わたしを中に万物が
堅く抱きしめ、縺(もつ)れ合ひ、
呻(うめ)き、くちづけ、汗をかく
太陽の月、青海(あをうみ)の、
森の、公園の、噴水の、
庭の、屋前(テラス)の、離亭(ちん)の月、
やれ来た、五月、麦藁で
細い薄手の硝杯(こつぷ)から
レモン水をば吸ふやうな
あまい眩暈(めまひ)を投げに来た。"

与謝野晶子「五月礼讃」
(via fffff9)

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"1.おばあちゃんが関節炎になったとき、おばあちゃんは腰を曲げられなくなって、もう足の爪を塗ることができなくなっちゃった。だから、今ではおじいちゃんがずっと塗ってあげてる。おじいちゃんの手が関節炎になったときも。それが愛。
Rebecca - 8歳

2.誰かがあなたを愛しているとき、あなたの名前を言う仕方が違う。あなたの名前はその人の口に優しいのがわかる。
Billy - 4歳

3.愛は、女の子が香水をつけ、男の子が髭剃り用のオーデコロンをつけて、一緒に出かけて、お互いの匂いをかぐこと。
Karl - 5歳

4.愛は、食事に出かけたときに、フライドポテトを誰かからもらうんじゃなくて、自分のをほとんど誰かにあげてしまうこと。
Chrissy - 6歳

5.愛とは、疲れたときに笑顔にしてくれるもの。
Terri- 4歳

6.愛は、ママがパパのためにコーヒーを入れてあげて、パパに渡す前にママが一口味見をすること。
Danny- 7歳

7.愛とは、年がら年中キスをすること。キスに飽きても、一緒にいたいしもっと話したい。私のママとパパはそんな感じ。二人のキスは気持ち悪い。
Emily- 8歳

8.愛は、クリスマスの日に、プレゼントを開けるのをやめて耳を傾ければ、あなたと同じ部屋にあるもの。
Bobby- 7歳

9.愛をより良く学びたいなら、嫌いな友達を愛することからはじめるべき。
Nikka- 6歳

10.愛とは、あなたがある男性に彼のシャツが好きだと伝えたら、彼が毎日それを着るようなこと。
Noelle- 7歳

11.愛とは、お互いのことを知り尽くしていても、なお友達でいられる小さなおばあさんと小さなおじいさんのようなもの。
Tommy- 6歳

12.ピアノの発表会の間、ステージの上で怖かった。みんなが私をじっと見ていて、パパは手を振って笑ってた。パパだけがそれをしてくれた。もう怖くなくなった。
Cindy- 8歳

13.ママは誰よりも私を愛している。夜に私を寝かせるのにキスしてくれる人は他にいない。
Clare- 6歳

14.愛とは、ママがパパに一番おいしそうなチキンをあげること。
Elaney-5歳

15.愛とは、ママがパパのことを臭くて汗まみれだと思っても、まだロバート・レッドフォードよりはハンサムだと言うこと。
Chris- 7歳

16,愛とは、一日置き去りにしていても、子犬が顔を舐めてくれること。
Mary Ann- 4歳

17.誰かを愛しているとき、まつげが上がったり下がったりして、小さな星々が体からあふれ出てくる。
Karen- 7歳

18.愛とは、ママが、パパがトイレに入ってるのを見て、気持ち悪いと思わないこと。
Mark- 6歳

19.本気でないなら「愛してる」と言うべきではない。でも、本気ならおおいに言うべき。みんな忘れている。
Jessica- 8歳

最後にもうひとつ。4歳の少年の隣人は、つい最近、妻を失った初老の男性でした。男性が泣いているのを見た少年は、男性の庭に入って、彼の膝の上に座りま した。少年の母親が、少年にお隣さんに何を言ったのかと尋ねたとき、その子はこう言いました。「何も。泣くのを手伝ってあげただけ」"

質問「愛とは?」への20人の子供の答え: とみー (via fffff9)

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"言葉のない音楽を聴いて出る涙は一番本物の涙だという気がする。
意味というもののない涙ですね。悲しいのか、うれしいのか知らないが、それが音楽の絶対境で、喜怒哀楽とは関係がない。"

内田百閒:四方山話

(via oieouio, poant) (via yotta1000) (via dead-milkman) (via utsurigi)

(via fffff9)

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"

身体は、すなわち、わが内なる物質なのである。物質が肯定されるとき、客観世界が肯定されるのである。密教は偉大なコスモロギーを持っている。コスモスの中で、我々の存在が考えられている。
・・・
自己の中に仏身が宿る。わが身が仏身であり、仏身がわが身である。衆生と仏とが無限に相互にうつし合っている。自己の中に、全世界が反映されている。

梅原猛「空海の思想について」

"

(via stilllll)

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"

「激動するもの」  

そういう言葉では言えないものがあるのだ
そういう考え方に乗らないものがあるのだ

そういう色で出せないものがあるのだ
そういう見方で描けないものがあるのだ

そういう道とはまるで違った道があるのだ
そういう図形にまるで嵌らない図形があるのだ

そういうものがこの空間を充満するのだ
そういうものが微塵の中にも激動するのだ

そういうものだけがいやでも己を動かすのだ
そういうものだけがこの水引草に紅い点々をうつのだ

(高村光太郎)

"

(via stilllll)

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